静岡県浜松市中央区倉松町に鎮座する蔵松山 寿福寺(ぞうしょうざん じゅふくじ)は、約440年前の戦国時代に開創された浄土真宗高田派の寺院で、ご本尊として阿弥陀如来を祀っています。
本堂は昭和12年、山門は寛政2年、鐘楼は明治元年に建立されました。
寿福寺の由来
当寺開基、平等院願弘誓授上人は、俗姓を藤原本多菊丸と称し、本多平八郎忠勝の叔父にあたる本多肥後守忠真の長男として生まれました。二十歳の時、三方原の合戦(元亀三年十二月)で、父と共に戦いましたが、父忠真の命令により浜松城に逃げ入って死をまぬがれました。三方原の合戦で家康軍は信玄に完敗し、浜松城の北方犀ケ崖まで退却しました。この時しんがりを務め壮絶な戦死をとげた武将の中に父忠真もいました。本多肥後守忠真(崔ケ崖に現在石碑が建てられている)の戦死の報告を聞いた家康は、残念と力を落としたそうです。菊丸は、多くの勇士の死にざまを見、また父の壮絶な死を見て、無常を感じ発心出家せんと旅立ち伊勢国(三重県)一身田に向かいました。一身田には、真宗高田派の専修寺があり、当時、第十二世尭恵上人という高徳の僧侶がおられました。ただちに弟子となり、上人から真宗の教えを聴聞し、誓授の法名を授けられました。これもひとえに守り本尊阿弥陀如来のご慈悲と感涙にむせび、心の安らぎを覚えた菊丸誓授は、三十歳の時、天正十年正月十八日、専修寺の旧本宅、野洲高田の専修寺に参詣し、親鸞聖人の布教の後を訪ねたいものと一身田を後にして東に向かって旅立ちました。
尾張、三河の国をへて遠州に入った菊丸誓授は、新居、舞阪、篠原を過ぎて高塚、若林を通るのが普通の道順でしたが、どうしたわけか海岸路の小沢渡、倉松、堤、米津、田尻の道をとりました。この道は東海道の脇道ですが、昔は繁華な倉松や堤千軒といわれてにぎやかな街道で、また米津、田尻には港もあったようです。菊丸誓授上人が倉松に入った時、旅路の疲れか足痛のためあまり歩行ができず倒れていたところをちょうどその場に来合わせていた下位彦右エ門(下位彦太夫家、下位甚左エ門家の先祖)に助けられ、下位宅に滞留しました。心暖まる熱心な薬餌供養のおかげで、菊丸誓授の病気は全快しました。その間菊丸誓授上人は自身の身の上を語り、他力本願のみ教えを熱心に語り続けたので、下位夫婦はこれに帰依したのでした。下位夫婦も帰依のあまり、菩提寺建設の心願を吐露したので、菊丸誓授上人もこれに応えたのでした。
昔この地には三カ寺の道場がありましたが、菊丸誓授上人は中の寺(樹福院)を再建し、菩提寺にしたいと申し出られたので、上人と彦右エ門は共に一身田に赴き、この旨を本山に申し出たところ、尭恵上人は非常に歓喜され、御馳走をたまわり、寺の山号、下位夫婦の法名をいただき、九日間の逗留を許されました。帰国後、菊丸誓授上人はこの地にとどまり、一寺の開基(1573年)となり、浄土真宗の教えの弘通に生涯をささげられることになりました。以後450年にわたり本多家が法灯を灯し続けて現在に至っております。
ギャラリー
浄土三部経
むりょうじゅきょう
無量寿経
かんむりょうじゅきょう
観無量寿経
あみだきょう
阿弥陀経
お釈迦様が説かれた数多くの経典の中で法然上人が最も功徳があると言われたのが浄土三部経です。
永代供養墓
先祖を祭る方がいなくなった場合永代供養にすることが可能です。
当寺の場合先祖1体あたり御布施四十万円より受け賜わります。
永代供養墓に納骨されます。
読経は毎年の永代経法要、盆会法要等にて実施されます。
寺情報
- 名前
蔵松山 寿福寺
(ぞうしょうざん じゅふくじ)
- 宗派
浄土真宗高田派
- 所在地
〒432-8064
静岡県浜松市中央区倉松町229
- 連絡先
TEL/FAX:053-447-0115